北条時盛
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北条 時盛(ほうじょう ときもり、建久8年(1197年) - 建治3年5月2日(1277年6月11日))は、鎌倉時代前期から中期にかけての北条氏の一門。鎌倉幕府連署の北条時房の長男。佐介流北条氏の祖。通称相模太郎。官途は越後守。異腹の弟に北条朝直、北条資時がいる。子に時親、淡河時治、時光、北条長時室などがいる。
父、時房が連署に就任して鎌倉に帰還すると、その跡目を継ぎ六波羅探題南方に就任、北方の北条時氏、北条重時と協力して洛中の治安維持、統括を担当した。仁治元年(1240年)に時房が没すると下向したが、再び上洛した。時盛は鎌倉に留まり執権に伺候することを幕府に上申したが受諾されなかったという。背景には、弟北条朝直との間に時房流北条氏の惣領権を巡る軋轢があった。2年後に突如出家し、その後は幕政から距離を置き、政に一切関らなかった。時盛の息子達も、同様に幕政の中枢から遠ざかっている。1275年、孫の北条時国が六波羅探題南方に就任する際に随行して上洛し、2年後、六波羅で没した。
九条頼経、頼嗣、宗尊親王ら京都から招聘した将軍が更迭され、上洛する際、時盛の屋敷が中継地として使われている。
時盛の家系は佐介流北条氏として続いたが、時盛の逼塞や後の時国や北条時光の失脚、朝直を祖とする大仏流北条氏の隆盛によって凋落し、他の流派の風下に置かれることとなった。
参考文献
- 北条氏研究会「北条氏系譜人名辞典」
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